**みやび通信第36号(通刊第72号) 2007 (平成19) 年9月11日 発行:KAZU**

第 36 号

福知山城





はじめに


 京都府福知山市にある福知山城は明智光秀が織田信長の命により丹波を討伐した際に築いた城で、現在の福知山市役所の東側、小高い丘の上に建つ平山城です。明智光秀以降、城主を代えながら明治2年まで城は存在しましたが、その後は解体されています。現在は天守閣が再建され、大天守、小天守、櫓を模した美術館、本丸城門、登城路と城壁があり、遺構としては銅門番所、石垣、豊磐井が残っています。


天守閣再建以前



 天守閣が再建されるまでは福知山城跡というと市役所近くのうっそうと茂った小丘で、「福知山城跡」と書かれた看板がぽつんと立っており、薄暗い史跡公園でした。夏は薮蚊の多いところで、休憩所とベンチはありましたが、訪れる人は少なく、春秋は人目を避けてアベックがいたりするくらい。小天守台の上に移築された銅門番所と豊磐井には説明のプレートがあったと記憶しています。


天守閣再建



小天守/大天守の2階部分から回廊でつながっています

 1984年(昭和59年)、天守閣再建のプロジェクトが立ち上がり、地元企業を中心に寄付が募られ、1986年に公園整備・天守閣再建がなされました。天守閣は鉄筋コンクリート製で3層4階建て、外装に木材を用い、かつての天守閣を忠実に再現したそうです。2階、3階は郷土資料館となっています。また最上階からは市内を一望できます。


朝暉神社/本丸に鳥居と社が移築されています

銅門番所



 現存する城郭建物。二の丸銅門(あかがねもん)にあった番所で、市役所近くにあったものを、大正時代の初め小天守台へ移築、天守閣再建に伴い現在は本丸に移されています。往時の様子を伝える貴重な建物です。


天守閣再建以前は天守台にありました

豊磐の井(とよいわのい)



 城内の灌水井戸としては日本一深いものだそうで、深さは50メートル。地表面は海抜43メートルですから底は海抜−7メートルの位置にあり、現在でも地表から十数メートルのところまで水をたたえています。


石 垣



 福知山城の石垣はみかけは荒々しい野面積の石垣ですが、奥深くまで積まれた穴太積 (あのうづみ) で非常にがっしりとして力強いとのこと。城壁用の石が近隣に少なかったためか、転用石が多数見られ、五輪塔の一番下の部分が石垣のあちこちに見られます。


石垣の中に転用石が目立ちます

城 門



 福知山城の城門は解体された折に寺院の山門として移築されているそうです。この門は天守閣再建前の登城路側に作られているもので、小天守の並びにあります。本丸からこの門をくぐって外へ出ると以前休憩所とベンチがあった所へ出ます。天守閣再建以前のたたずまいをここだけが残していて、石垣は実に見ごたえがあります。尚、この城の西側は以前は登城路がついていましたが、道が崩れてしまい現在は通ることができません。


櫓〜福知山市佐藤太清記念美術館


この櫓は城の様式を模して作られたもので、史実に基づかないそうです


昇龍橋


天守閣再建後にかけられた橋で駐車場と城内を結びます


明智光秀肖像画



 明智光秀の肖像画として有名です。郷土資料館内に展示されているものは残念ながら複製画。館内写真撮影禁止なのでこれはネット上にあった本物の写真を拝借。

さいごに

 大阪からJR福知山線に乗って福知山駅に入る手前に右手にこの福知山城が見えてきます。ちょうど列車が高架上を通るので城と高さが同じくらいなのでなかなか見事な眺めで、これは列車の中からのみ見えるお城の姿。山陰線で京都から入った場合も同様の姿をみることができると思います。明智光秀は本能寺の変でネガティヴな印象を持つ方も多いですが、今福知山では“光秀くん”というキャラクターも生まれ、家臣を大切にした武人、歌も堪能な文化人の面から捉えられています。そんな光秀が築いた福知山城を一度お訪ねください。